12月28日の早朝4時現在,わたしの部屋は火星の大地のように乾燥しきっている.枕元の目覚まし時計に付属した湿度計は17%という見たこともない数値を叩き出しているし,何より全身が疼くように痒い.おかげで大容量のボトルに入った医療用ワセリンでもって夜な夜な全身を油まみれにするのが,この季節のわたしの日課となっている.
気休め程度に先日Amazonで購入した小型の超音波式アロマ加湿器を稼働させているのだが,こいつは香りを撒き散らすことばかりに長けていて肝心の加湿機能が全くお話にならない.四畳半すらまともに潤すことができず加湿器をなぜ名乗れるのか疑問だが,畢竟呪うべきは齢26にもなって安物買いの銭失いを繰り返す自分自身であろう.
そういえばどこかの誰かが,安物買いで失敗しないものは本である,というようなことを言っていた気がする.たしかに古本は古いからと言って特に落丁乱丁が多いわけでも,年月の経過によって内容が劣化するわけではないから安心である.かつて中高生のわたしは休日に居住する市内の古書店や中古CD/DVDショップを周回して気に入ったものを贖うことを習慣にしていたが,雀の涙ほどの小遣いで何を買うべきか頭を悩ませる経験も,いま思うと決して悪いものではなかった.読みたい本ができたときに研究費で買えるかを先ず考えるようになった現在と比べると,あの頃のほうがよほど豊かな生活を送っていたのではないか,という気さえしてくる.
そこへいくと,昨今は巨大なプラットフォーマーによる書籍や映画,音楽のカタログ化・電子化が進みすぎてしまった.収益性の確保や産業の持続性といった観点では望ましいことだし,消費者としても機会コストは大幅に減ったわけで,客観的に見れば人類の進歩である.それでも,半ば脱法的に文化を享受していたあの頃のほうが,コンテンツや情報に還元されない「作品との出会い」という経験それ自体の質は高かったような気がする.読書の快楽に目覚めかけた少女がエンデ『はてしない物語』との邂逅を果たすのはやはり,学校配布のタブレットのつるつるした有機ELディスプレイではなく,日焼けして少し黴臭いにおいがする紙の上がふさわしくはないだろうか?
いずれにしても,彼女らが生まれによらず等しく文学に没入できる世界を作ることは,われわれ大人の重要な責務だと自分には思われる,なんといっても,金を十分に払えないせいで10ページに1ページくらいの割合で脱毛サロンのターゲティング広告が挟まっている,みたいなディストピア的事態が多分に現実化しつつある世の中である.かくなる時代にあってBildungsromanという企てがいかにして可能か,文学者の諸兄はいちど真剣に検討してはどうだろうか.「文学的知性」が復権し世界を変えることが万に一つあるとするなら,まさにこの途の先ではないかと自分は直観する.まあ,自分には論文をOAで出すとか著作物にCCライセンスをつける程度のショボい実践,手続き的なアクセシビリティの確保を履行する以外にやれることもないので,他力本願でしかないが.

そういえば,今年は幸いなことに2回もアメリカ出張に行く機会に恵まれた.1回目は西海岸のサンディエゴ,2回目は東海岸のニューヨークとバランスが取れていたのは幸いであったが,残念なことにデルマー競馬場はスケジュールの都合で立ち寄れず,ならばと勇んで向かったベルモントパーク競馬場もちょうど改装工事中だったので,そっちの面では不完全燃焼だった.やはり研究目的の渡航は制約が多すぎるので,次はプライベートで遊びに行きたいものである.アメリカを気軽に訪問できるレベルの経済的自由を勝ち取るまでにかかるであろう年月に思いを巡らせると,いささか眩暈がしてくるというのが正直なところではあるが.
春先に祖父と「日本酒でも飲みながらアメリカの土産話をしよう」と呑気に約束していたのだが,果たせないままに彼は先月この世を去った.生前の気丈な姿からなんだかんだ生きながらえるだろうと素朴に信じていたので,母親から訃報が届いたときは少なからず動揺した.11月17日の朝のことだった.
つい先日,わたしは帰省した折に彼の遺影に手を合わせてきた.彼の人柄を示すように,生前の飲み仲間から捧げられた日本酒の瓶とその他の贈答品で仏壇のまわりは溢れかえっていた.世間ではリタイア後の男性の孤独が問題になっているという話を聞くが,推し量るにそのような危惧とは無縁な老後を送ったようである.断っているのに向こうから御仏前が届くので御返しが大変だと祖母はボヤいていたが,これも祖父の人格のなせる業だろう.
わたしは積み上げられた贈答品の一番上に,このまえ公開されたばかりの論文の写しをそっと載せた.クリアファイルに収まったそれは如何にも薄っぺらく見えた.「少年老い易く学成り難し 一寸の光陰軽んずべからず」という彼が生前よく口にしていた文句を,わたしは心のなかで噛み締めた.本当にそのとおりだと思った.
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